父と時計へ、手帳の話

67歳の父が、数日前から時計の修理屋に見習いとして通い始めた。これがモーレツに嬉しい娘のワタシ。
父は、その人生の半分以上をかけて、ある大きな企業の技術職を勤め上げた。私が子どもの頃、父のシゴトカバンの周りに機械の設計書が散らばっていたのをよく見かけた(大事なものも散らかしてしまう習性は、彼の娘にもしっかりと受け継がれている)。現役時代には、音楽機材から医療機材まで、いろんなものを見て、診て、作って、直して、きたらしい。
父は、定年退職後も、ひまつぶしのアルバイトとして技術的な仕事に臨んでいた。娘が言うのもナンだけど、父は技術者として非常に優秀であったのだと思う。パートとして通う勤め先でも正社員並みに、それ以上に必要とされて、定年間際の頃よりも忙しそうだった。パートなのに現場の責任者にならされて、深夜に帰ってくることもあった。ありがたいことだ。けど、でも、65歳を過ぎるとさすがに体がついていかないようだった。妻と娘は「もういいんじゃない」と言って父に仕事を辞めさせた。
父は、技術者らしく、人づきあいが下手な男であった。母が紹介したカルチャースクールやフィットネスクラブなんかも、なんだかんだと文句をつけて辞めてきてしまうのだ。だから、家の女たちに「働かないで」と言われた父は、もともと趣味を仕事にしていたような父は、手持ち無沙汰になってしまった。
「おとうさんってば1日中テレビばっかり見ていて、アタシが遊びにいきづらいのよ」と、母がこぼした。母もむちゃくちゃなことを言うが、でも、父にとっても健やかではないな、と娘は思っていた。
そんな状態が半年ほど続いたある日、ひょんなことから、父は時計の修理の勉強を始めることになった。なにかの用で、時計屋を営む知り合いを訪ねた父が、その店の時計たちに惹かれ、その日から店の手伝いがてらに修理を学ばせてもらえることになったのだそうだ。
口下手な父がおつかいついでにそんなとりつけをして帰ってくるなんて、と家の女たちは驚いた。そして喜んだ。
娘が言うのもナンだけど、父は見た目が渋い。筑紫哲也とか小泉純一郎とか、ああいう系統の、シワと白髪と鼻筋の男なんである。そんな父が街の時計屋で時計を直しているなんて。急に実現した憧れの父親像に娘は興奮した。しかもコレ、「街の時計屋」の良さがわかるようになった今だから最高なのだ。すねかじりの思春期なら受け入れられなかっただろうが、自立した今なら自慢してまわりたいほどである。父よ、ナイスタイミング。それでなくても、67歳になってまだ新しく始まるというのが、どうにも素晴らしくてたまらない。
「おとうさん、あなたの人生、最高だ」と娘は言った。「へい、へい」と父は、テキトウに返事をした。
娘は何かお祝いがしたかった。そうだ、あの手帳はどうだろう、と、娘は急いで例のサイトを開いた。

いつもは「どうせ使わないから」とどんなプレゼントを拒む父も、今回は機嫌良く「どれどれ」と言ってパソコン画面に顔を近づけた。そして「この、ヌメ革ってやつが、地味でいいな」と、よりにもよって一番高いカバーを指定してきた。
「なになにー?」と63歳の母も覗き込んできて「あ、おかあさんねー、このオレンジの革のやつ!」と聞いてもないのに勝手に脳内カートに入れてきた。でも、まあ、いいか、と思って、25歳の娘は2つの手帳セットをカートに入れ、決済した。

2008年、父と母は結婚40周年なんだそうな。ふたりの記念日は、桜が西を走る頃。父と母と娘は、40年目の桜を見に、京都へ行こうと約束をした。


時計を学び始めた父へ、娘が手帳を贈るという話。