誰も知らない

上映開始前に、ビル1階のTully'sでキャラメルホイップラテを購入。友人はマロンラテを。 ここシネラセットは劇場内の後方が普通の映画館席、前方にソファや椅子、テーブルが置かれていて、映画館のようにも自宅のようにも楽しめる。私たちは前方のテーブル席へ。 友人も私も、ずっとこの作品を観たい観たいと言い合っていたので、友人の予定が急に空いたことは非常に嬉しい縁だった。私たちはTully'sのラテを「甘い甘い」とはしゃぎながら作品が始まるのを待った。


上映が終わり、立ち上がる観客たち。 でも私はしばらく立ち上がれない。冷えて空になったTully'sの紙コップを、ぎゅっと、握った。 友人もすぐには立ち上がらなかった。
私たちはそれで、忘れ物は無いかとか、空のコップを捨ててくるからとか、そういう言葉だけを交わして映画館を出た。


聞けば悲惨なあらすじで、どんなエンディングを迎えてもハッピーでないことはわかっていたのだけれども、観れば不思議と悲惨ではなく、しかし泣かせるような甘ったれた感動はない。 あったのは、弱くて強い可能性。
本当に、本当の記録映像であるかのような自然な会話と表情。 母親役であるYOUに憎しみを抱かずにいられたことが「これは映画である」ということの手がかり、それぐらい。
恋に生き、生活も子どもたちも置き去りにするような母親。そんな母親が夜遅くに帰ってこようとも、布団から飛び出してきて両手で迎える幼い次男・次女の疑わない笑顔。 年齢的にも立場的にもはしゃげない長男・長女でも、母親と話すときの口の端のゆるみがかわいらしいし、これが演技であり演出であるというのがまったく信じられないほど。心で愛されていなければこんな表情は出ないと思ったから。
冒頭の母子のシーンは、彼ら4人の子どもたちがこのあと頽廃の現実を迎えていってもなお、外部へ逃げ出して助けを求めなかった理由のひとつになる気がする。というよりもむしろ、この事件の状況と結末から逆算したらこの愛情のあり方が浮かび上がってきた、といってもいいぐらいだ。その逆算が是枝裕和監督の愛情のあり方なのかもしれない。
だからこれは、事件の映像化ではなくて、是枝監督の作品である。