八番筋カウンシル

八番筋カウンシル

八番筋カウンシル

「なかなか読みすすまぬ」と弱音を吐いたけど、読み終えました。書き下ろし小説だったのですね。
雑誌掲載と書き下ろしと、小説を書くうえでどういう点でどのぐらい違いがあるものかわからないけれど、というか今まで初出なんてほとんど気にしたことなかったけど、あまりの閉塞感と停滞感に不安になって(不安になるほど巧く描かれた閉塞感だからして)「これ、どこで連載されてたのかしら……」と確認してみたら書き下ろしである、と。や、各文芸誌の特徴を把握してるわけじゃないから、どの文芸誌の名が記されていたとしても「やっぱりね」とか「意外だわ」とか思わなかっただろうけど、書き下ろしと知ったら「なるほど」と思えて。
小さな街のさびれた商店街で暮らす人々の話で、登場する世代は主人公ら30歳あたり(全員独身)と、その親の世代と、その親(主人公らの祖父母)の世代。地元で家族とくらす独身30歳、失業、理不尽、衰退、差別、疑い、蔑み、老い、DV。湿ったタオルを手渡されたような、読むほどに、その小説世界にうへえとなってしまう。けど、そこそこエグいことも、湿ったタオル程度の重さにとどめて書きすすんでいくのが津村さんだな、とも。
時間軸の往来や人名の表記など、あえてわかりづらくしてるのか、何度か「今はいつだっけ、これは誰だっけ」と戸惑った。でも同じ土地で生きていくってそういうことなのかもしれない。
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印象に残ってるところをいくつか。
土地持ちの老婦人・エトさんを、商工会・八番筋カウンシルの輩が「あの人は(このあたりの他の老人と同様に)土岐田医院の先生を信頼してるから、土地をどうするかも先生の口添えを大いに参考にするはずだ」と決めつける中、主人公は、自分が小説の新人賞をとったことを(他の年寄りは自分が会社を辞めたことばかりをヤイヤイと言ってくるのにたいし)エトさんにことほがれて、エトさんは本当にあの医者を頼っているだろうかと引っかかる。その「AはBに含まれB=Cだから、CもAを内包する、とは限らない」とふと思えてくる違和感の積み重ねが、ああ、と思った。これだけ厄介な説明しておいて、持った感想が「ああ」としか言えないという。
津村小説5冊読んでみて、今のところまだ1度もまともに父親が出てこない。その5冊の中でもこの『八番筋カウンシル』はまともな父親の出てこなさが著しかった。
主人公の言動がたまに軽薄になることがあっておもしろい。なんとなく、小説の主人公って胸の内ではいろいろ思いながらも言葉にしない行動にしないイメージがあるんだけど、この主人公、逡巡するわりにけっこう余計なこと言ったり詰めないまま行動したりするので、その迂闊さが意外で笑ってしまった。し、リアリティがあった。
笑うといえば、前回の弱音で「"バッファロー吾郎の竹若"という字が出てきて気持ちが軽くなった」と書いたけれど、そのあとも、若い女性が老婦人との世間話で「外国にいってもテレビがおもしろくないだろう、メッセンジャー中川家も仁鶴も出てない」という内容の発言をしていて、関西の演芸番組の大きさを感じました。
閉ざされたコミュニティの濁りや将来の見通しの立たなさ、いろんな、どうでもよくてどうしようもないことで小説世界はずーっと停滞してくるしいけど、後半、それこそ“バッファロー吾郎の竹若”のあたりから、ドドドと展開と感情が押し寄せてきます。と書くといかにも竹若さんが起承転結の転を担っているようだな。全然まったくそういうわけじゃないんだけど、そういうことにしておこう。