誤解が苦手

昨夜、ひょんなきっかけで急遽ひらいた飲み会があった。
なにかこう、奇跡がかけ算されていく夜だった。私がその人たちを好きな理由を裏付けるような話が交わされる。早寝で酒に弱い私が、午前3時まで飲み続けても意識はハッキリしていた。
この夜のことを、できるだけこぼしたくなくて、店から自宅まで近いのに、夜中の3時過ぎに遠回りして歩いて帰った。歩きながら、反省した。無意味に自分を卑下したこととか、好きな人はしばらくいませんと言ったこととか。自宅に着いて玄関のドアを閉めたとたん、雨の降り出す音がした。
寝たのは4時だが、7時前には自然と目が覚めた。
起きてもまだ興奮している。録りためたラジオを聴こうにも頭に入ってこない。いつもの音楽も疎ましく感じる。激しい雨の音と空の薄暗さがちょうど良かった。昨夜を脳内で再生する。
どの話も面白かったが、《誤解》の話が、深夜ならではの真剣なくだらなさで良かったなと思う。
"事実の思い違いによって疎遠になった人たち"という話題が出た際、友人女性が急に「ちょっと待って、それって誤解じゃない? ……ごめんなさい私、誤解って苦手なの」と目を潤ませだした。一同が「誤解が苦手、とは?」とキョトンとしていると彼女は「ドラマとか漫画とかでも誤解が生じると、苦しくてそれ以上見ていられなくなる」「お互い本当のことを知れば悲しいことにはならないのに」「みんなは誤解は平気なの?」と誤解の悲しさを熱っぽく説明。誤解を苦手とか平気とか、虫の好き嫌いのように言うところや、他人のエピソードに誤解の気配を感じてつらくなるという誤解アンテナの鋭敏さがとにかく面白い。たとえば吉田戦車の漫画で、誤解に敏感な中年男性が「さては誤解だな」と気づいたり「やはり誤解だったか……」と落胆したりするシーンがありそうだなと思った。
彼女は最終的に「だから私、『ごんぎつね』も本当にダメで」と言って『ごんぎつね』のあらすじを言い始めたが、途中でついに涙をこぼし、「ごめん、まだ私には『ごんぎつね』のことは話せない」と泣き出した。