かに玉

 出勤中に"共謀罪"法が成立した。
 法の内容の曖昧さがおそろしくもあり、それが決まっていく過程の凶暴さが、学校で教わってきた議会制民主主義の目的とまるで違っていて、怒りではなく、自分の中の子どもの部分がおびえているような、無力感をともなう恐怖があった。昼休みに新聞サイトの政治記事を遡って読み返していったが、どう読んでも、どういう理屈で成立できたのかがわからない。見せかけですら誠実をふるまわないで、公然と法の抜け道を権力者側がつかい、めざした結果にさえなれば何を言われてもかまわない、どうせすぐ忘れるだろうから、という感じだった。じっさい、わたしも忘れていくのだろうが、ニュースを知った瞬間、冷や汗が出て少し息が荒くなったことを書き残しておかなくてはと思った。言葉にして、考えるのをやめないようにしなくてはと思った。


 定時退勤。職場から3駅先までの4kmを歩く。梅雨に入ったはずが、1日じゅう雨となる日はまだほとんどなく、夕方に歩くのがとても気持ちよい。今月初旬のパーティに向けて少しでもやせるために始めた3駅徒歩だが(さしてやせなかったが)、ポケモンGOのたまごもガンガン孵っていくし、寝つき寝起きが良いのでそのまま続けている。ポケモンGOは昨日からまた何かしらウィークに入ったようで、ガーディとかポニータとかロコンとか、日ごろならアイドル視しているポケモンがざくざく出てきてたのしい。「ウリムー」という、ウリボーのようなポケモンが新たに出現するようになった。
 地元駅のドラッグストアでトイレットペーパーと牛乳石鹸と特茶5本を買ったらにわかに大荷物になった。スーパーに寄りたかったが夫に託すことにして帰宅。配達が2件くることになっていた。自分が食材を買えなかった理由などをクドクド書いたうえで「長ねぎ、卵、生姜を買ってきてください」とメッセージを送る。はーい、こちらもまもなく退勤とすぐ返信あり。米をしかけ、ネットで調べたレシピを紙に書き写す。荷物2件受け取る。どちらも郵便で送られてきたが、ゆうパックと書留は担当が違うらしくそれぞれ別の配達員が持ってきた。
 夫帰宅。レシピの書き写しを見て、そのまますぐ料理を始めた。わたしは調味料の分量をはかったり夫がつかった調理器具を随時洗っていったり皿を並べたりしてアシストに専念する。
 夫が台所に立ってからあっという間にかに玉ができた。十六穀米も炊けた。ゆうべのおかずの残りのプルコギ風肉野菜炒めもレンジであたためて並べる。ビールはアサヒスーパードライジャパンスペシャル。ギフト限定販売のやつだ。CMで着物をきた北川景子柴咲コウ松雪泰子が並んでいるのを見てぐっときて買った。
 蟹缶で作ったかに玉はものすごくおいしかった。その料理名から、蟹と玉子だけで作れそうと思っていたが、レシピによると意外なほど長ねぎを多く使うのだと知る。炒めたねぎがどっさり入って、鶏がらスープベースにごま油でしあげた甘酸っぱい餡をかける。かに玉って、中華料理店にいっても自分の意志では頼んだ記憶がないが(たいていお高いし、蟹にも玉子にも特別な思い入れはないので)、こんなにも王道にうまいものなのだなという感動で、ふたり夢中で食べた。

交互に眺める

 20時に会社を出る。殺伐。しかも朝昼と夏をも思える暖かさだったのに一転、極寒。「さすがにもういいな」とヒートテックを選ばなかった朝の自分を責める。
 電車に乗り込み、空いた席に座り読みかけの本をひらく。次の駅で乗りこんできた人たちがわたしの前に立った。40代後半ほどの男性と、小学4年生ぐらいの男の子がつれそっている。たぶん親子。お父さんのほうは会社帰りといったいでたちだが、何かイベントでもあって息子と一緒にこの時間に帰っているのだろう。
 彼らは、何を話すでもなくお父さんの手のひらにあるスマートフォンを一緒にのぞきこんでいた。子どもに動画などを見せてやっているのだろう。たまに子も画面を指でなでる。
 本を読む視界の隅に、いつまでもお父さんの腕に顔をつけるようにしてスマートフォンをのぞく子のようすが入る。そんなに画面に夢中ならスマートフォンごと子どもに渡したらいいんじゃないかと思うが、子どもにはスマートフォンを渡さないという父なりのルールがあるのかもしれないし(子どもは驚くほど操作を発見し覚えるというし)、子もあえてお父さんの手のひらの上で眺めたいのかもしれない。何も言わないが、甘えたいのかもしれない。お父さんと二人で夜の電車に乗るということが彼にとってめずらしく、甘やかなことなのかもしれない、などと勝手に想像する。
 しばらくした停車駅で、わたしの隣に座る人が立ち、降りていった。目の前の父子のお父さんが、何も言わないが、目線で子に座りなさいとうながす。子はわたしの隣に座る。すると、少しして、お父さんがスマートフォンを子に渡した。あれっ、渡すんだ、とわたしは本に目を落としたまま小さく驚く。子は、受けとったスマートフォンを両手で持ち、神妙に眺めていた。が、ほどなくして父に返した。やはり何も言わずに。あれっ。
 息子から受けとったスマートフォンを眺める父。数十秒ほどして、また息子に渡す。受けとる息子。
 なんの往復運動でしょうか、と息子が受けとった瞬間に画面を見やると、白い丸と黒い丸がランダムだが整然と並ぶ絵が見えた。碁石だ。息子はスマートフォンを両手で持ってぐーっと見入ったかと思うと、1分ぐらいでまた無言で父に返す。
 対局と気づいて、わたしはにわかに、38度ぐらいの湯船につかっているような気分になった。

土鍋と重曹

 帰宅したらまず、土鍋に湯を沸かす。
 数日前、Twitter能町みね子さんが「暖房をいれても部屋が寒い」とつぶやいていたところに「鍋でお湯を炊くとあたたまります」とリプライした人がいたようで、それを能町さんが「え??それだけで???」と非公式RTしていたのが目にとまった。
 我が家も、よくいえば通気性のいい家で、暖房がなかなかきかない。特に玄関から台所にかけては通気孔と窓があり、窓には雨戸もなくカーテンもつけられないタイプなので、その付近がスースーする。昨年3月にここに越してきて、このたびが初めて迎える冬だった。
 居間はドアさえ閉めればすぐ暖まるとしても、やはり台所が寒い。寒いと台所に立ちたくなく、料理をするのも皿を洗うのもコーヒーを入れるのすら億劫になる。台所にホットカーペットをひいたりヒーターを買い足したりしてマシにはなったが、使用電気量ほどの満足感が得られない。そのように、自宅の寒さに対してどんよりとあきらめていたところに見かけた「鍋でお湯を炊くとあたたまります」だった。
 翌日、仕事から帰宅してすぐ、コートを着たまま台所で土鍋に水をはり火にかけてから奥の部屋に進んでコートを脱ぎ服を着がえた。火をつけているからテレビの前で座りこむのはやめ、すぐ台所に戻った。まだ湯は沸いていないが火がついているだけでも暖かい気がする。流しに置いていった朝食の皿を洗うところから炊事を始めていると、まもなく湯はぐらぐらと煮たった。気のせいでなく暖かくなってきたし、湯気に包まれて神経がゆるむ。これはいい。無計画に沸かした土鍋の湯でスパゲティを茹でることにして、となりのコンロで残り野菜をアンチョビとニンニクで炒めてスパゲティにからめ、その日の夕飯とした。以来、土鍋の湯があると思うと、毎日の夕刻に胸にむくむくと現れる、寒い台所で炊事することへの気の重さはなくなった。土鍋をつかう前提で献立を考えるのも楽しい。まずは鍋。ポトフ。茹で野菜とか、うどんでもラーメンでも、とにかく土鍋で湯を沸かす目的になればいい。帰宅後すぐに火をつけるのも炊事に勢いがついてよかった。

 ある日、帰りの電車の中で、土鍋で米を炊けばもっと暖かくなるのではないかとひらめいた。そんな情報をどこかから聞いたわけでもないが、なんとなく米の粘性が、より濃い暖かさを、より長く部屋に留めておくような気がしたのだ。あんかけがただの汁よりも熱く、より長く熱を保っている(気がする)のと同じ理論で。
 帰宅して、研いだ米を土鍋に入れて水をはる。……あっ。米を浸水させているあいだ、土鍋は火にかけられない。ぬかった。寒い。より濃い暖かさを得るために束の間でも土鍋の湯沸かしを待たなければならないのなら、[暖かさの濃度]×[暖かい台所に立てる時間]としたとき、結局は炊飯で得る暖かさも単に湯を沸かして得る暖かさも同等なのではないか。だとしたらコンロを一口ふさいでいるぶんだけ土鍋炊飯のほうが不利である。そも、炊飯のほうが暖かさが濃いとはどういう理論か。己のひらめきを責めながら、あわてて片手鍋のレミパンプラスに水をはり火にかけ、少しでも湯沸かし炊事ルーチンに戻ろうとした。すっかり湯沸かし教の信者だ。
 土鍋炊飯は、鍋底のほうを焦がしてしまった。軽はずみに暖かさをよくばった戒めだろう。夕飯を終え、土鍋の焦げとりに臨むが、スポンジでどれだけこすろうとスポンジが炭に黒く染まるばかりで真っ黒なでこぼこはまるで減らない。ネットで「土鍋 焦げ」と検索すると「重曹を使うべし」と出てくる。やはり重曹なのだな……と神妙になる。
 べつに重曹につらい思い出があるわけではないのだが、数年前に西加奈子さんがなにかの場で「掃除でも炊事でも、たいてい『重曹をつかえ』って言われるやんか。また重曹や! それは知っとんねん! ってなるわ」と興奮気味に言っていたのが忘れられない(どういう場面での発言だったかはさっぱり覚えていない)。西さんがなぜあんなに興奮していたのか、重曹がなぜだめなのか、いや、だめとは言っていなかったが、でもなぜ重曹のススメを素直に受け入れられないような口ぶりだったのか、前後の文脈も思い出せずまったくわからないのだが、でもその発言だけがあざやかで忘れられない。もしかしたら夢かもしれない。いずれにしても、その後なにかで「重曹を」と見かけるとわたしの耳に「また重曹や!」と西さんの声が聞こえるようになった。そしてやがて、重曹に頼るのはなんだか負け、という謎の意識がわたしの中に芽生えていった。
 しかしあのときの西さんには悪いが、重曹でなければ今わたしの目の前にあるこの問題は解消されない。流しの下の、洗剤ストックなどを置いているあたりをざっと見やるが、西さんの声に貞淑を誓ってきたおかげで近年は重曹を使っておらず、ここに引っ越してきた時もどこかにしまった記憶がない。やはりこの家に重曹はないのだろう。……ほんとうに重曹以外に方法はないのか、土鍋の焦げ落としには、と食い下がってさらに調べる。酢を使う方法もあるようだが、それは焦げついた食材によるとのこと。野菜やキノコはアルカリ性なので酸性の酢が効くが、酸性の米飯にはアルカリ性重曹なのだそうだ。酸性とかアルカリ性とか科学を持ちこまれて、いよいよ逃げ場がない。「炊飯のほうが暖かさが濃いはず」とかいってつきすすんでいた頃がなつかしい。もう、どう調べても重曹一択である。重曹を小さじ2いれた水を沸かすだけでアラ簡単! だが重曹をつかわなければたちまち目はかすみ鼻がきかなくなりなにを言っても家族友人らにことごく誤解され孤独のなか近づいてきた輩にカネを騙しとられる人生となるであろう、と検索の先々で説得された。
 時計を見るともうすぐ21時。商店街のドラッグストアが閉まる。ほぼ寝まきといえる格好をしていたが、観念して着がえ、コートを着こみ、外に出る。わたしの決意のようにシリウスの光が強い。
 寒さに歯を食いしばって最寄りのドラッグストアに駆けこむと、重曹は1kg袋でしか置いていなかった。こんなにいらないんだよ、と一瞬ひるむが、他の店を見てまわる時間もないし、手ぶらで帰ってもまた鍋底の焦げの瘴気にあてられるだけである。土鍋のおかげでせっかく台所に立つのが楽しい冬の夜がつづいていたのに、こんなつまらないことでまた台所が遠のくのか? 新年からそんなことでいいのか? わたしは1kg袋をつかんで会計をし歯を食いしばって帰宅、コートのまま焦げた土鍋に水をはり重曹を小さじ2入れて火にかけ、それからコートを脱いだ。
 湯がぐらぐらと沸きだし、火を止める。これで冷ませば焦げが浮いてくるのらしい。ついに一歩を踏みだしたことと、火と湯気で暖まった部屋にほっとしてわたしは、湯の中で、まだ熱がある鍋肌から噴きつづける気泡や、はがれてきた焦げがゆらゆら揺れるのをしばらく眺めていた。やがて土鍋は素手でさわれるほどになり、湯を流し、シリコンのへらで焦げを軽くこそいでみる。するり。ひとなでで鍋底はつるつるに戻った。ほんとうに、重曹一択なのだった。

 西さんの「また重曹や!」をなんの話の中で聞いたのか、それが現実だったのかすらも定かではないが、あれからずっと、その言葉に打たれた気になって、重曹と、それにまつわる家事を、無意識に自分から遠ざける口実にしていたのかもしれない。西さんを慕うことと、西さんの(本意がわからない、ひょっとすると夢で聞いた)言葉に翻弄されることはまったくべつだ。とにかくこれでまた明日から土鍋で料理ができるし、土鍋炊飯にも気軽に挑戦できる。慣れて焦げつかすことがなくなるまで、何度でもかんたんに焦げを落とせる。
 西さんは重曹を、つかっているだろうか。西さんでなくとも、わたしのようによくわからないきっかけで重曹に抵抗を持ち、それでいま台所周りに苦労している人がいるとしたら伝えたい。重曹では解決できなこともあるかもしれないが、重曹が役立つところなら期待以上にあなたを助ける。だからどうか重曹を気安くそばに置いておいてほしい。