動く大谷をたくさん見たいなら

 鼻よりも先に目で気づくのは、ひょっとすると39年生きてきて初めてのことかもしれない。近づいていき立ち止まって、周りを見まわし人がいないのを確認してマスクをずらし、金木犀の香りを吸いこむ。

 77歳の母が初めてスマートフォンを持つことになった。その契約につきそう。携帯電話ショップで我々が通された席の隣には、アクリル板をはさんで高年女性と中年女性の組み合わせが座っていた。ウチと同じだ。
 若い男性の店員さんが母に、プラン選びのために、たとえばどんな用途でインターネットを使いますかと訊く。母は「わたしは大谷選手が大好きなので、大谷のことを調べようと思います」と答えていた。そこから、プランごとの容量制限の話になり、店員さんがギガバイトがギガバイトでと説明するも母はうなずきもせずじっと聞いている。わたしは、大谷に関する記事を読むだけなら一番低いギガバイトでも充分だけど、動く大谷をたくさん見たいなら余裕のあるギガバイトのほうが安心だと説明した。
 母は「大谷以外にも、テレビで話題の人のことも調べると思う」と用心するようにつけくわえる。今年の5月下旬に実家に行った際、その数年前まではたまに娘が名前を出してもまるで気に留めなかった星野源について、代表作やバンドを組んでいたことだけでなく出身校や彼の親がジャズ喫茶を営んでいたことまで母がスラスラと暗唱していたのをわたしは思い返した。なんだか心配だ。

 母が説明されることのなにもかもについて一度ではわからなかったり、店員さんがちょっとお節介なぐらいいろんな提案をしてくれたり(そこのショップの会社と全然関係ないし、店員さん自身が詳しいわけでもないのになぜか「お得と聞きます」とJ:COM加入を提案されたりもした)、勧められる高めの機種や使わないオプションをわたしが根気よく断り倒していたりして、入店から契約完了までじつに3時間かかった。
 ショップを出てからの記憶がほとんどない。母の代わりに判断せねばと神経を使っていたのもあるが、初対面の人と長く話すという行為があまりにも久しぶりで、自分がすっかり灰になっているのがわかる。1年半以上の家ごもりの日々で最小化していたコミュニケーション容量をこの3時間が一気に超え、記憶処理が低速になってしまった。気づくと自宅に帰っていた。シャワーを浴びて布団に倒れこむ。10時間眠った。