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顔面遊園地 ナンシー関 消しゴムの鬼

 惜しみなかった。ナンシー関を稀代のコラムニストにしたのは、海ほどの消しゴムを彫っていた手間と時間なんだと思った。
 展示会のキャッチコピー「見えるものしか見ない。そして見破る。ましてや彫る。」がすごい。見えるものしか見ずにいるって、相当に強いポリシーだ。多くの人がナンシー関の言葉を欲しがり崇めたのに、揺らぐことなく最後まで一貫してただの視聴者だったことの男気。尋常でない数の消しゴムハンコには、対象や世間におもねらない批評家というよりも、対象や世間に与しない情熱家という印象を持った。そして思いのほか少女な人なんだなという印象も。
 芸能人以外の消しゴム版画がどれも非常にかっこいい、かわいい。音楽誌の表紙やCDのジャケット、子ども(丁稚)シリーズや美人シリーズ、小鳥や小猿やパンダなどの動物シリーズなど、言われなければナンシー関の印象と紐付けられないクールさ、愛らしさである。絵を描くのが好きな人の絵だ、と胸の内側がじわーっと熱くなった。好きで好きで描きまくって、描くだけにとどまらず、ついには彫る。その膨大な手間と時間。同じ手法でと考えると、小鳥やパンダとテレビの向こうの芸能人の観察に、愛のちがいはほとんどないんじゃないかと思えてくる。
 展示場に掲示されるナンシーコラムと、それらへの町山広美氏の付記(この付記がまた面白い。コラム抜粋だけならあとで本を読み返せばいいと通り過ぎたが、付記を味わいたくて足を止めてナンシーのコラムから読み入った)を読んでいるうちに、ナンシー評でよく聞く「辛口」「毒舌」は、彼女の本のタイトルや帯の宣伝文句に誘導されて思うようになったのかも、と展示場の入り口にずらり並んだ帯付きの著書を思い返す。つまり本を売る編集者や出版社や、その先のマスコミに植えられたイメージかも、と。本質を見抜く彼女の才能を「辛口」と端的にいうのは彼女の作品を売るために必要な手段だ。だけど本当には読んでいない人間がそれだけを増幅して辛口批評家の代名詞にしたてていったんだな、と。
 家族揃って異常な熱で相撲を見ていたという関家の様子を書いたコラムが掲示されていた。"信仰の現場"の原体験だ。おもえば自分の育った環境がすでに非常識であった、と打ち明けている。そういう素地があって、だから彼女はテレビの中の異常に敏感でいられたのだろう。高台から下界を指さし誰かの愚かさや黒さをばらかすんじゃなくて、熱があって関節も痛いといってる人を見て「あれ、風邪なんじゃないか。自分もそういう症状の風邪にかかったことがあるから」と思っている感じ、が近そうだ。

 『TVブロス』11月8日号の特集「2014年に考えるナンシー関」に、ナンシー関著作をほぼ読んでいないという能町みね子さんの「アフター・ナンシー」考が載っていた。能町さんは、"斬り役"としてナンシー関の名前を出す風潮やナンシー関を気取る人がすごく嫌だと言っている。「批評の名手という認識に比べ、テレビ好き芸能好きってとこが置いてけぼりになってる」。そして、彼女の後継者は誰かという質問が有効かはわからないけど、テレビへの愛情のかけ方という点で、大量の知識を動員して褒めるてれびのスキマさんにナンシー関さんに通ずるものを感じる、と。この能町さんの考えを読んでわたしは、peatさんの『タモリ学』感想を思った。

 私がこの本のもっとも好きなところは、あとがきやご自身のblogでも書かれているとおり、ここにあるすべてが「テレビのこちら側」にながれてきたものだけで構成されているという点である。本人へのインタビューや、周辺の人のインタビューや、あちら側、に足を踏み込まずとも、これだけ豊かなものがテレビのこちら側には流れてきているのだなあと思い知らされる。
 しかし、徹頭徹尾「タモリにとって」として語られる本であったとしても、やっぱりこの本には、大きく「てれびのスキマ」さんが存在してるなあとおもう。当たり前のことですが。特にこれだけの厖大な情報量の中から、何を選び、何を選ばないか、そのこと自体、この本がタモリという人物を浮かび上がらせると同時に、著者であるてれびのスキマさんそのひとを浮かび上がらせることに他ならない。

 あちら側に足を踏み込まずとも、これだけ豊かなものがテレビのこちら側には流れてきていると思い知らせる。見えるものしか見ない、そして見破る。消しゴム版画の海を見れば、星の数ほどの文献を携える『タモリ学』の姿勢との共通性に実感がわく。

 展示会では、ナンシー関の消しゴム版画以外の趣味もささやかに紹介されていて、その中に"シール集め"があった。メモも取らずうろ覚えだが、シール集めの解説にはこんな内容の文が添えられていた。

彼女は幼少の頃からシールを集めるのが大好きで、自分でも作るほどだった。
しかしシールを貼るという楽しみ方はしていなかった。
好きなら貼ればいいのに、貼れるというシールの機能は試さないのかと訊くと、
「貼れるという魔法のことは知っている。自分はその魔法を疑っていない。だから試さなくても魔法の魅力は損なわれない」
と答えた。

 このシール集めの趣味と、動物などの愛らしい作品などをわたしは単純に紐づけて「ナンシー関はとても少女だ」と感じたし、集めて貼らないシールの愛し方は、踏み込まず見えるものだけで楽しむテレビの愛し方に似ている気がした。