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『エヴリシング・フロウズ』

天神橋筋商店街に向かう人ごみの中で、銀シャリかまいたち天竺鼠さらば青春の光と学天即ではどれがいちばんおもしろいのかという結論の出ない議論をした。ヒロシは、さらば青春の光とか天竺鼠を見ていると、たまに笑うを通り越してびっくりする、と言い、フジワラは、話に上がった五者を、二極化していて、かまいたちが比較的中庸である、みんながもう少し有名になれば、関西のお笑いはとても懐が深いことになるであろう、と分析した。どうもねえちゃんが言っていたらしい。

 上の文章に、お、と思った人が、それぐらいの気持ちのまま読みはじめたらいいなと思う。

 大阪の中学3年生たちの話だ。高校受験にくるしみ、クラスメイトが遭っているいじめや家庭の深刻な問題を目の当たりにし、非力な自分と勝手な他人にいらだちつつ、絵を描くことが好きだったり、自転車に乗ることが好きだったり、母親のおしゃべりが苦痛だったり、友人とお笑い論をぶったりしている、そういう中学生たちの話だ。

 主人公のヒロシは、そこそこおしゃべりだが、クラスメイトのことをよく観察している。よく観察できているのはヒロシが、人が集まる輪の外側にいる人間だからではないか。
 ヒロシの母親はとてもおしゃべりだ。はじめは、どこの家の母親もこんなもんだろう、まして大阪ならと思って読むがこれはちょっと病的な類だなと不安になるほどのおしゃべりで、ヒロシは思春期上の反発心だけでなく、恐怖に近い気持ちで母親を疎ましがる。だがひょんなことで、母親のちょっとした挫折を知り、ヒロシはざまあみろとは思わずにすこし戸惑う。この戸惑いでヒロシがやさしいとかいい子だとか言ってしまうのは乱暴だけれど、健やかに育っているなと思えて、知らない人んちの(というか小説の中の)子だが、ホッとする。とはいえその後もヒロシは変わらず、おしゃべりな母親と顔を合わせずに済ませたいとばかり考えているし、親は子に似ないものだと思いたがるしクラスメイトにも言うが、読者としては、中学男子にしては口数の多いヒロシに、キミのそれってお母さん譲りじゃないのと思えておかしくなる。血の抗えなさが丁寧に書かれてるなあとも思う。
 ヒロシに唐突に声をかけてきたのが名前順で1つ前のヤザワだった。ヤザワの言葉は、発言ではないようだ。ヤザワの言うことを聞こうとすると、風の音や校庭の部活の音が聞こえるのと同じような感覚になる。文中でそう形容されているのではなく、そういうふうに読めてくる。謎が多くてまっしぐらで中学生らしくあどけない彼に、素直にきゅんとしてしまった。いまヤザワの魅力を書いてみて自分で「結局そういう男がいいのかよ!」と思ったが、や、かっこいいんすよ、ヤザワ。
 他にも、ヒロシがなんだか目で追ってしまうトンチキなTシャツを着ているなんでも全力な野末や、その野末といつも一緒にいるなぜかヒロシに緊張感を与える大土居、ヒロシの絵への自信を喪失させるほど絵が巧い増田など、集団の輪の中に入れないヒロシにも事件なり行事なりを通じて関わるクラスメイトがいて、この誰もがじつに魅力的なのである。無邪気でばかでまっすぐでばかなのもかわいくて仕方ないが、聞いた噂や相手の立ち位置だけで物事を判断しないのが、めちゃくちゃかっこいい。受験にピンときてないし、趣味の絵もおろそかになっている冴えないヒロシだが、人を虐げることの意味を疑いつづける彼の周りに、やがてそういう子たちが集まり関係が厚くなっていくのが、どうにも胸をじんわりと熱くする。

 津村小説ではたびたび、理不尽に尊大な態度をとる人物が登場する。一方的に序列を強いたり、自分を尊敬しないことを責め立てるような。そういう人物が今までは、理解不能な怪物あるいは異星人として描かれていたけれども、今回は主人公とおなじ中学3年生として登場したことで、それら精神的暴力の衝動がプリミティブに書かれていたと思う。今まで津村小説に出てきた怪物たちのプロフィールが糸で通したようにつながった。津村さん自身、強烈なパワハラを受けた体験からそういう人物にひっかかりがあって意識的にも無意識的にも書きつけてきたのだろうけど、津村さんはそれを愚痴として書き重ねたのではなく、書くたびに怪物の表情や行動に近寄っていて、もしかしてこういう理由で彼らは許せなかったんじゃないかと津村さんなりの答えを出そうとしている感じだ。幼稚な完璧主義者は埋まらない穴に苛立ち、それを誰かのせいにしたいのかもしれない。もともと持ち物が少ない者はわずかな楽しみや誇りで食いつないでいけるものだが、そんなふうにのほほんと生きている奴がいること自体、完璧主義者にはいけすかないんだろう。
 いじめが拡大していく様子が特別なことではないように淡々と描かれていたのもリアリティがあった。誰かが誰かを妬んだり蔑んだりする気持ちはすみやかに伝播する。広がると軸が見えなくなり、軸が見えないから逃れ断ち切るのは難しい。攻撃する側はその対象に直接の憎しみなんかいらない。井筒和幸監督の『ヒーローショー』という映画がある。若者たちのケンカの果てに死人が出るが、殺したほうと殺されたほうは初対面だ。お互いに知り合いのまた知り合いがやってるケンカの延長線上にヘラヘラと駆り出され、とにかく相手を降参させればいいらしいと聞き、そんなつもりはまったくなかったのに死体を埋めるハメになる。それを思い出した。自分のところで食い止められない幼さ。

 ヒロシたちの担任の森野も良かった。彼女はたぶん津村会社員小説では主人公になってきたような女性だ。サバサバとしながら、いい年して独身だと自虐的に言ってみせたり。でもそれを聞かされてる生徒が"別にあんたが結婚してようがいまいが関係ないから授業すすめてくれ"と若干疎んじているところにタハー、デスヨネーとなったし、それを書いてるのが30代独身の津村さんというのがたまらん。
 森野は中学生たちに高圧的になることも媚びることもなく、仕事として淡々と、より良くなるように慎重に生徒たちに対しているのがかっこよかった。教師は聖職なんかでなく勤め人、そのうえでベターな判断をしていきたいというような。

 どこの高校で勉強したいかなんて、勉強がわずらわしい15歳に考えられるわけがない。なのに大人に言われて受験勉強をしている理不尽さ。そんななか周りの友だちが、山に登るのが好きだから山岳部に力を入れている高校に行きたいとか、中学受験でエスカレーターの女子校に入ったものの学校の雰囲気になじめなくて苦しいから別の高校を受け直すとか言っているのを聞く。それからいろいろ、いろいろあって、試験もまもなくの正月あたりに、もしかしたら受験勉強は、お金も力もない15歳にとってわずかながらに人生の舵をとれる大きなチャンスなのではないかと32歳のわたしが気づいた。行きたい学校に行くことで、自分のいる環境を自分の望むほうに近づけることができるかもしれない。
 いくつかの書評で、この小説の主題のようなものとして"弱者の勇気"や"正義"という文字を見かけた。たしかにそうなのだが、それに加えるならわたしは「受験勉強にはちゃんと向き合ったほうがいいな……!」と中3小説としてのド直球な感想を持った。勉強は誰にも平等に使える武器なんだ。そんな手紙を添えて、ちょうどいま中3の甥と中1の姪にこの本を送りつけたろかと鼻息荒くしたが、たぶん彼らは封さえ開けてくれないだろう。小説にもあるとおり、中学生はけっこう忙しいらしい。
 それよりこれを、いつか何かで中学生と接するかもしれない大人が読んでおくといいと思う。たとえば親として、親戚として、仕事で、道端で中学生に会うかもしれない30代のあなたが。中学生も30代もたいして悩むことと楽しいことが変わってないというのも、情けないやら救いになるやらだし、うっかり悩める中学生に出くわしても、もしかしたら彼らに武器のつかい方を伝えられるんじゃないかと。子どもと大人の違いは何かといえば、それは力やお金のあるなしでなく、挫折や後悔の翌日を生きてきた経験値だろう。ヒロシたちも大人になっていく。
 最初に書いたとおり、なにやら芸人の名前が載ってるのかな、ぐらいの気軽さで読みはじめ読み終えられる、爽やかで力が湧く小説でした。

エヴリシング・フロウズ

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